福山城(岡山・総社市)

和霊神社(Pあり)
429号線から、西坂台団地へ交差点を曲がり→その先のY路を右へ→山の上まで車でGO。

伊予国の家老を祭神にしてるって、なんでだろ?
地元にいい人いなかったんかな。
 
  
 
福山城
平安時代から山頂にあった福山寺を利用して、鎌倉末期に真壁是久が築城。
後醍醐天皇の新政に反旗を翻した足利方についた備中土豪宗の飽浦信胤や田井信高らがココに立て籠もった。
新田義貞の家臣・大井田氏経が攻め落として入り、尊氏が九州から巻き返してくるのに備えた。
1336年(建武3)5/18〜3日間、足利直義軍に攻撃され続け陥落。(福山合戦)
  
猿田彦神社への分岐、幸山城への分岐を経て、登山口から15分ほどで到着。
門跡が現れる。
 
予算はどこから出たのか、いっぱい碑が建ってる。
 
こんな山の上にも古墳群があるらしい。
  
 
幸山城
関白・藤原道隆の子の伊周は、道長との後継争いに暴走自滅して左遷に。
家令をしてた有道維能も、996年(長徳2)、武蔵に左遷された。
そこで、武士団で最大勢力の児玉党を組織。
保元の乱(1156)には、源義朝の郎従として弘高が参じ。
一の谷の合戦(1184)では、源範頼軍に参じた家長が平重衡を生け捕り、備中に領知を得た。
延慶年間(1308〜11)頃、庄資房が築城。
1333年(元弘3)、六波羅探題北条仲時と共に、蓮華寺で自害。
資政が猿掛城に本拠を移す。
応永年間(1394-1428)頃、備中守護・細川氏守護代である石川氏が入る。
1567年(永禄10)、三村元親の妹婿・石川久智は宇喜多直家との明禅寺合戦に出陣し死亡。
備中兵乱では三村派だったんで、備中松山城が落ち元親が切腹した時、久式も自刃した。