閑谷学校(岡山・備前市)1~2

閑谷学校(400円、Pあり) MAP
石塀の向こうは有料。
河内屋治兵衛を棟梁とする石工集団によって、1701年(元禄14)に完成。
切り込み接ぎ式の工法が用いられてて、内部には洗浄した割栗石をつめて排水を助けている。
山の上もぐるりと一周めぐり、椿山との境の塀は山へ向かって龍のよう。
  
 
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閑谷学校の創設者である岡山藩主・池田光政を祀るために1686年(貞享3)に建てられた、閑谷神社。
もとは光政の諡にちなんで芳烈祠または西の聖廟に対して東御堂といわれた。
見れないけど、本殿内に1704年(宝永1)に鋳造された光政の金銅製座像が安置されてる。
 
明治8年に神社格付けされたんで、鳥居を埋め込んだ料金所門を設置。
  
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聖廟の正門兼学校の校門。
中国最古の詩集「詩経」の中の詩に因んで鶴鳴門ともよばれる。
両脇に花頭窓のある付属屋を付けるなど中国の建築様式を模した、1686年(貞享3)の造営。
  
聖廟には儒学の始祖・孔子を祀ってるんで、孔子廟または西御堂ともいう。
本殿にあたる大成殿は1684年(貞享1)の完成で、見れないけど内部の厨子には1701年(元禄14)鋳造の孔子像が安置されてる。
ベンガラ色の備前瓦は家紋なし。
床も備前焼
  
 
陶管で湿気対策を施している。
黒いかぶせは鉄じゃなく布を加工したものだとか。
ボランティアガイドさんがお宝情報をたくさん話してくれる。
 
敷地内に繋牲石がある。
孔子を祀る釈奠に供える「いけにえ」の生き物をつなぐ石柱だとか。
ココでは形式的に配置してるだけ。
 
2本の楷の木は、秋に赤&黄色に色づく。
大正4年に林学博士白沢保美氏が中国・曲阜の孔子墓の実を持ち帰り育苗したのが日本初で、大正14年におすそ分けされた。
楷書=楷の葉っぱの生え方が語源。
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藩主臨学の際に使用した公門で御成門ともいう。
本柱の後ろに控柱2本を建てて切妻屋根をのせる薬医門様式の建物で、石塀が築かれた時に設置された。

1677年(延宝5)に建造された小斎。
藩主臨学の際の御成の間で、道のりが長いんでお風呂に入ってサッパリしてから学んだよう。
質素な材を用いた数寄屋造りで一の間、二の間からなり、納戸・浴室・雪隠が付属してる。
この建物だけがこけら葺きで、現存する建造物の中では最も古い姿を残している。
 
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1701年(元禄14)完成の講堂。
十本の円柱に囲まれた内室とその周囲の入側からなり、外廻りを広縁でとりまいている。
  
材料の吟味と施工が入念になされてて、2015年現在も一分の狂いもみられない。
一・六の日の四書の講釈、釈菜の講経、正月の読初めの儀、藩主臨学のときの講釈がおこなわれた。
 
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日通いの生徒や毎月朔日の朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門で、飲室門。
差別するために門をいくつも造るなんて、虚栄心というものは愚か。

講堂の左側に習芸斎と飲室が繋がってある。
渡り廊下の2本の梁は別々の木だとか。

毎月朔日には朱文公学規の講話がなされ、近隣の百姓の聴講も許された。
三・八の日には五経などの講釈が行われた。
床に用いられている材は栂で、天井は張っておらず太い自然木が見える野天井。
  
飲室は生徒の休憩室で湯茶を喫することができた。
土間の片側にある竹の簀の子の下には石づくりの流しが配されている。
中央の炉のふちには「斯爐中炭火之外不許薪火」と彫り込まれてて、火の使用に厳重な注意が払われてた。
炭以外は燃やすなと言いつけを破る者はいなかったようで、天井に煤汚れなし。
 
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教科書・参考書をおさめた文庫には、中央の階段を上がった左右の床に8千点余が所蔵されてた。
漆喰塗で固めた上を瓦葺きにした置屋根式で、前室には三重の土の戸を含む六層の戸が設けられている。
 
延焼を防ぐ目的でつくられた人工の火除山の向こうには、明治38年に建てられた市立中学閑谷黌。
  
 
閑谷保黌会の中心となって閑谷学校の再興をはかり、家族とともに移り住んで半生を閑谷黌教育に捧げた、西薇山先生顕彰碑。