富田松山城(岡山・備前市)

富田松山城(Pあり)
1531年(享禄4)に浦上村宗赤松晴政の裏切りによって大坂の合戦で討死すると、長男・政宗が継いで赤松晴政と戦ってきたけど。
1537年(天文6)12月、尼子晴久が播磨へ侵攻してきたんで、浦上氏は赤松氏に従う形で和を結ぶ。
1554年(天文23)、尼子氏と手を結んだ兄を見限って、弟・宗景は天神山城を築いて出ていき、毛利と同盟を結ぶ。
弟・国秀は富田松山城を改築して居城とした。→政宗に攻められ降伏。
政宗はココを拠点に宗景と対峙したけど決着がつかずお開きに。
1564(永禄7)、政宗は宗景と対立して縮小した勢力を打開すべく黒田職隆の娘と息子・清宗を縁組したけど、婚礼当日に赤松政秀の襲撃を受けて戦死。
 
備前片上駅からまっすぐ南下すると、登山口に案内板も駐車場スペースもある。