上寺山館(岡山・瀬戸内市)

上寺山館(余慶寺、Pあり) MAP
和田範長一族の居城で児島高徳は7歳の頃から住んでた。

山の上の広い敷地に、文化財の建物がたんまり。
梵鐘は九州に遠征した宇喜多直家軍が戦利品として持ち帰ったもの。
他は興味ないので奥まて行かず。
  
1332年(元弘2)、元弘の変に敗れた後醍醐天皇隠岐配流されるのを阻止しようと、船坂峠で待ち伏せてたけどルート違いで失敗。
急ぎ追いかけ、宿泊先の美作守護館へ。
警備が厳重で奪還はできず、庭の桜の幹に天皇だけが理解できる十字の詩を残した。
1333年(元弘3)、隠岐を脱出した天皇は、船上山で幕府軍を蹴散らし京へ。
高徳も先発隊に従軍。
1335年(建武2)、建武親政を離反した足利尊氏に呼応して、備中でも反乱が起こる。
高徳が討伐に向かったけど、拠点であった三石城を奪われ、一族の大半が討たれてしまう。
1336年(建武3)、尊氏に属してた赤松円心の動きを阻止すべく、館を焼き払って熊山で挙兵。
重傷を負った高徳は、妙見寺に預けられた。
北畠顕能南朝勢力を挽回するため征夷将軍・宗国親王を奉じて東国にくだるのに一緒し、三河国加茂郡に住んで3人の男子をもうけた。
嫡男・児島高秀が宇喜多家の祖先といわれる。
子孫が先祖の地である備前へ帰り、守護代の浦上氏に仕えた。