高田城(岡山・真庭市)1~2

高田城(Pあり)
1336年(建武3)、関東三浦氏当主・高継は足利尊氏に美作での新田義貞軍討伐を命ぜられ、湊川の戦い楠木正成と戦ったりした。
1340年(延元5)、貞宗が美作真島郡地頭に任じられ、如意山に本丸、太鼓山に出丸を築城。
  
真庭市役所勝山支局の南側を奥へ。
城が築かれる前の1290年(正応3)、円応禅師はココで生まれたらしく、産湯井戸がある。
元に渡って仏法を学び、近江守護・六角氏頼に招かれて永源寺を開山した人らしい。

二の丸へと更に進む。
 
スゴイ急斜面で、車で行けばよかったと思った。
 
本丸へは、二の丸の奥から向かうのと、舗装道を直進するのと、2コースある。
 
ふくらはぎが痛いので下山。
出丸も諦めた。

1361年(正平16)、美作守護・赤松氏に従ってたんで、侵攻してきた山名時氏に攻撃されたり。
1532年(享禄5)から度々尼子氏の攻撃を受け、1548年(天文17)、10代目の貞久が病没するとついに攻略されちゃい、貞勝は岩屋城に逃れた。
1559年(永禄2)3月、尼子氏の衰運に乗じ奪回。
したけど、1565年(永禄8)、今度は鶴首城・三村家親の急襲を受け落城。
逃げる途中に囲まれちゃって、井原村蓬の薬師堂で自害した。
嫁は宇喜多直家の側室になり、直家の死後は秀吉の寵愛を受けた。
翌年(永禄9)、直家に家親が暗殺されると、三浦家臣団は貞久の弟・貞盛を擁立して城を奪還。
したけど1569年(永禄12)、毛利軍に取られる。
三浦氏は諦めず、尼子氏遺臣・山中幸盛の援軍を得て、1570年(元亀1)に奪還に成功。
したんだけど1576年(天正4)、毛利&宇喜多軍に攻められ、滅亡した。
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真庭市役所勝山支局の北側を奥へ行くと、三の丸遺跡がある。

1697年(元禄10)、森氏が改易になって、天領&廃城に。
1764年(明和1)、三河国から遠縁にあたる三浦明次が転勤してきて、勝山藩が成立。
高田城の三の丸を中心に御殿などの整備を行い、勝山城と名付けた。