後谷城(兵庫・丹波市)

後谷城(白山神社、P可) MAP
1215年(建保3)に、芦田家光の5代の孫・為家が赤井野に分封され赤井氏を称した。
白山から東に延びた尾根先端に砦を、山麓に居館を設けた。
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11代目時家の次男・直正が荻野家に養子に入り、朝日城主に。
1557年(弘治3)、兄・家清が香良合戦での傷がもとで死去すると、直正によって荻野家に吸収された。
1579年(天正7)6月、明智光秀に攻められ落城。
 
白山神社が城館の本丸で、石積みの段差を設けて奥に曲輪が5〜6面延びている。
本丸敷地前に空堀が一部残ってたり、城館周囲に家臣団の屋敷跡らしき石積みの敷地があると、看板に書いてある。
ちょっと右に詰城への登山口があり、車をとめられる。
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☆赤井忠家&一族の供養塔(谷村公民館、Pあり)
公民館左横の路地を行くとあった。

1533年(天文2)5月、C’細川晴国派の波多野稙通は、B’細川晴元派の赤井忠家を攻略するため、支城の穂坪城攻めへ。
撃退したけど、赤井忠家は館の大手で戦死した。
10月、波多野氏に制され、城を占拠された子・時家は三木城・別所氏を頼った。
C’が自害して波多野氏がB’に帰参したんで、丹波へ戻れた。
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穂坪城(P母坪公民館)
建武年間(1334~38)に丹波守護・二木頼章が、高見城から延びた支尾根の北端に支砦として築城。
1回目は波多野氏を退けたけど、2回目は落城。
丹波のほとんどが波多野氏の支配下に入った。
 
175号線沿いの曲がるポイントに案内板が出てる。
公園に車をとめるもよし。
通り過ぎて右へ集落に入り、南出郭の下にある公民館へ向かうもよし。
  
南出郭には、社殿の横に櫓台のようなモッコリがある。
  
本郭へ道は続いてるけど、あまりいい感じではない。