虫明城(岡山・瀬戸内市)

虫明城
小早川氏の庶流・裳掛氏(虫明氏)が地頭として入ったとか。
天正年間(1573〜92)に宇喜多直家に攻め滅ぼされ、家老の花房正成が入ったことも。
  
公会堂から→武家屋敷前にある現役郵便局→左折してレトロな郵便局→秋葉神社からめためた急な遊歩道を登る。
山頂には石祠があり金剛蔵王大権現が祀られてるらしい。
  
 
虫明陣屋(P上町公会堂)
1632年(寛永9)、岡山藩筆頭家老・伊木忠貞が幕府への配慮から御茶屋と称し家老陣屋を構えた。
御茶屋といっても支城的な軍事施設だった。
池田光政は、他国からの侵攻や領民の反乱が起こりやすい辺境の地に家老を配したので、安易にチェンジするなと言い残してる。
よこやま流通さんの入り口に伊木氏茶屋跡碑がある。

池田恒興は母・養徳院が織田信長の乳母となった縁で織田信秀に仕え、信長にも仕えた。
1560年(永禄3)桶狭間の戦い後、組士30人を預かる侍大将に取り立てられ。
この時、香川長兵衛(後に伊木忠次と改名)は池田家臣になった。
小牧長久手の戦いの際、去就に迷う池田恒興豊臣秀吉に加担させたんで、秀吉から輝政の後見を命ぜられ、池田家の筆頭家老に位置づけられた。
関ヶ原の合戦後、主家は播磨を与えられ、伊木氏は三木城を預かる。
子・忠繫→孫・忠貞が家督を継いだ。
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辛川城(西辛川配水場、P可)
戦国時代には天神山城・浦上宗景の家臣・虫明市内が居城。
のちに宇喜多直家に仕え、八浜合戦で戦死した。
1579年(天正7)8月、小早川隆景備前侵入に、直家は戸川達安を守りに当てた。
砂川あたりで前後からはさみ打ちにし、毛利勢を総崩れに。(辛川合戦)
 
  
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服部丸山城(丸山城跡ふるさと公園←P丸山公民館)
室町時代前期に山名氏の家臣・天野左亮が城主で。
戦国時代後期は宇喜多氏の家臣・虫明氏が居城。
  
 
途中の削平地に丸山大師堂跡地碑。
 
服部交差点→川を渡って城跡方向へ左折するあたりに公民館があった。