砥石城(岡山・瀬戸内市)

砥石城(←PJAせとうち豊原支所)
福岡合戦で敗れた備前守護代・浦上則国は、いったん赤松政秀の播磨高田城に逃れたけど、奪還を期して砥石城に入った。
1485年(文明17)、守護・赤松政則復活にともなって則国は山名&松田勢と対戦したけど反対に砥石城に追い詰められ討死。
 
1534年(天文3)、隠居生活を送ってた宇喜多能家は、同僚の高取山城・島村豊後守が夜襲をかけられ、病床にあって防戦できず自決した。
宇喜多氏の本領を横領した島村氏だったけど、主家・浦上氏によって浮田大和守に与えられた。
1559年(永禄2)、孫・宇喜多直家浦上宗景の命により、備中三村氏に内通した浮田大和守を攻め落とし、舎弟を城主にした。
 
攻め込むのは無理っぽいし、山裾を左へ歩く。
大橋貝塚の看板が。
  
もうちょい進むと笠松神社参道登山口があり、宇喜多直家生誕の地碑が建ってる。
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高取山城(←P東谷公会堂)
浦上宗景の家老・高取備中守が築城。
1534年(天文3)、島村豊後守は砥石城・宇喜多能家を攻め滅ぼし。
1559年(永禄2)、孫の宇喜多直家に攻め滅ぼされた。
尾根続きの山に天神山城・浦上宗景重臣2人が城を構えてるっておかしいから、居城じゃなく番城だったのではないかと。
児島郡を領する四国の細川氏、上道郡を領する金川城・松田氏、犬島は海賊の根拠地という、敵中に突出したエリアだったし。

東谷公会堂に登山口の案内がある。