金川城(岡山・岡山市)

金川城(P御津町郷土資料館)
1468年(応仁2)、松田元隆は応仁の乱赤松政則に味方して家臣となり。
子・元成が守護代となって富山城から本拠を金川城に移し、備前西部を支配した。
1483年(文明15)、山名氏の援軍を得て備前守護所・福岡城を攻め攻略。
調子に乗って備前東部に勢力をもってる守護代の浦上氏・三石城も攻めたけど反撃にあい、敗走中に自刃した。
1554年(天文23)、浦上兄弟が仲間割れ。
政宗と姻戚関係にあったんで、宗景と同盟を結んだ毛利勢に攻められ、落城寸前まで追い込まれ和平を望んだ。

妙覚寺西側を入ってくと案内板&資料がある。
岡山県内で最大級の山城=登らず。
三の丸には道林寺跡があり、古い石垣が残ってるよう。
  
1568年(永禄11)7月、宇喜多直家は松田氏攻略にGO。
元輝は出先で急報を受けて駆け戻り、敵が立ちまわっていない搦手口から本丸へ。
道林寺丸を占拠してる敵が配下の虎倉城・伊賀久隆なのを、櫓から見て腸煮えくり返ってるトコを鉄砲で撃ち抜かれ滅びた。
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妙覚寺(Pあり)
江戸時代末期の名医・難波抱節邸と敷地を入手して、明治9年に竜華教院と号しオープン。
寺務所前にドウダンツツジが。
  
「建長四年十二月」銘の梵鐘は県文化財で、秀吉が備中松山城を水攻めした際に陣鐘として使用したもの。

裏門になってる長屋門は、1822年(文政5)建築の思誠堂塾の遺構。
金川城の本丸&二の丸跡の石垣を使って境内を拡張したとか。
 
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★七曲神社

1868年(慶応4)、西宮警備の朝命を受けた岡山藩は日置帯刀の部隊を神戸に進めた。
途中、隊列を横切ったフランス人水兵を第3砲隊長の滝善三郎が槍で突き銃撃戦に。(神戸事件)
責任を取って切腹したんで決着したらしい。
境内に滝善三郎義烈碑がある。

急な坂を登ってくと本殿がある。

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金川陣屋(北区役所、Pあり)
 
コッチからは階段が1764段続いてる。
  
日置忠俊は、1600年(慶長5)池田輝政が播磨藩主になった際、多可郡のつま之新城を預けられる。
同年、輝政の嫡男・利隆が備前監国として岡山に在城すると、家老職に任ぜられ金川へ入る。
1613年(慶長18)、家督を継いだ利隆と共に播磨へ戻り、高砂城に入り。
1616年(元和2)池田光政家督を継ぎ、翌年に鳥取移封になると、鹿野城を預けられ。
1632年(寛永9)、岡山に移封になると、また金川担当に。