長水城(兵庫・宍粟市)

★三森城(あごなし地蔵、路駐) MAP
長水城の東の出城。
敵が東から1本道を進軍してきたら、狼煙をあげて合図。
 
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聖山城(ヒチリキ神社、Pあり)
秀吉は、まず聖山城を落として長水城攻めの本陣とした。

神社に登山口がある。
 
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★五十波構(さつき園、Pあり) MAP
長水城の北側の防衛施設として宇野祐頼が築造。
秀吉によって英賀城が落ちた1580年(天正8)4/24、蜂須賀正勝&神子田正治がコチラを攻略。
すぐ南に長水城搦手への看板があり、宇野政頼はココから逃げ帰ったと思われる。
 
敷地北側にあるので、29号線から山崎神野郵便局を目印に曲がる。
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長水城(伊水小学校、路駐)
赤松則祐が築城し、範資の4男・師頼(広瀬氏の祖)に守らせた。
嘉吉の乱で宍粟郡も山名氏に支配されたけど、置塩城を築いた時に長水城も再興され、守護代をしてた宇野氏が入って南麓の伊水小学校あたりに居館を構えたらしい。
 
秀吉は国見の森公園にある遊鶴寺に本陣を構え、4/24〜26の戦闘で周りの城を攻め落とす。
山の八合目まで攻め上がって途中の小屋を焼き払い、3ヶ所に砦を設けて城兵の逃亡と兵糧搬入をシャットアウト。
放置して弱るのを待ち、5/9に攻撃を開始。
内通者が出て城は炎上。
宇野政頼の3男・宗貫が作州の竹山城・新免氏の養子になってたんで、落ちていこうとしたけど千種川が増水してて渡れず自害。
末っ子くんは乳母に抱かれて瑠璃寺を頼り、住職になった。