志方城(兵庫・加古川市)

天神山城(大宗大歳神社、路駐) 
円心の4男・赤松氏範が築城。
父の死後、兄たち(範資・貞則・則祐)と不和になり、南朝方について戦って三田城や福島城を賜った。
 
118号線沿いに墓地へ登るキレイな道があり、更に登ると大宗大歳神社がある。
そこから登山道を行くと赤松氏範公碑があると調べてたけど、漂う怨念にビビって道を探せなかった。
本丸の南に3つの曲輪、北西に二の丸や堀切・土塁が残ってるらしいけど退却。
 
×播磨清水寺(300円、Pあり)
摂津中島で叛乱を起こしたものの敗れ、播磨清水寺に敗走。
則祐の子・義則に攻められ、父子5人+郎党137人と共に自殺した。
門前の茂みの中にひっそりとお墓があるらしい。
 
志方城(観音寺←P志方二ノ丸会館)
黒田官兵衛の奥さんの実家。
櫛橋氏は関東武士の家柄で、鎌倉時代に播磨の地頭になった。
氏範と戦って戦死した、恩賞として天神山城が与えられた。
水がなく不便だったんで11年後に志方城を築いて引っ越し。
志方小学校が二の丸、南にある観音寺が本丸、旧志方町役場が西の丸だったらしい。
城の西側に城下町を持った総構えの平城で、周辺を堀、空堀、池などを利用した水堀で固めていた。
 
天正6年、神吉城を落としたゴージャス織田軍は志方へ。
北畠信雄滝川一益丹羽長秀を先陣に、一気に攻め立てた。
こりゃとても守りきれんなと人質を差し出して降伏したと信長公記にある。
天正15年頃、丸焦げにされた城跡へ薩摩の僧が立ち寄ったら草ボーボーになってて、菩提を弔おうと禅寺を創建したそう。
観音寺の山門を潜った所に案内板が建っている。