田辺城(京都府)

明徳の乱(1391年)で武功を挙げ、丹後守護に任じられた一色満範が八田守護所を置いたトコ。
1580年(天正8)、細川藤孝織田信長から丹後をもらい、宮津城を本城、押さえとして田辺城を築いた。
1600年(慶長5)、子・忠興は福島正則加藤清正と共に上杉景勝追討の先鋒を命ぜられる。
石田三成に人質にされそうになった嫁・ガラシャ大坂で自害した知らせが届き、宮津城・嶺山城・久美浜城など焼き払い、隠居してたココに篭城。
西軍1万5千を2ヶ月釘づけにし、東軍勝利に貢献した。

  
田辺城(舞鶴公園、P公民館)
本丸櫓門は細川時代のが再現されてて、2Fは田辺城資料館になっている。
幽斎がお出迎え。
  
もう1つの模擬隅櫓は彰古館て展示室。
  
  
本丸石垣に半円形の凹みがあったんで発掘調査したら出てきた本丸井戸跡。

本丸石垣に上がってみる。
  
  
本丸(芝生広場)の西端に天守台の石垣が。
細川時代のもので天守閣は建てられなかったらしい。
取りあえず台だけ造るのって、なんか意味あるのか?

隣りに京極さんの後任・牧野家紀恩碑。
廃藩まで在封。
 
庭を左に見ながら公園の外に出ると内掘跡が。
 
二の丸にあった藩主庭園の心種園。
幽斎は文芸界のトップで、古今和歌集の秘事口伝の伝承者(古今伝授)だった。
自分は討死する覚悟だから、後陽成天皇の弟に秘伝書を献上したいと政治工作。
松の下で「古へも 今もかはらぬ 世の中に 心のたねを 残す言の葉」て歌を添えて譲った。
古今伝授が廃絶するのを憂慮してた天皇の計らいを2度断って時間を稼ぎ、3度目、関ヶ原合戦2日前に開城。
  
 
 
★カフェふろーら MAP
ケーキをいただこうと思ったけどメニューになかった。
心種園を眺めながら腹ごしらえ。
 
 

 
有料駐車場の先にある舞鶴西総合会館に、二の丸跡碑。
当時の北面は海で、浅い津になってたとか。

 
お城の向かいに警察署と牧野氏時代に藩校明倫斎として創立された明倫小学校がある。
間の道に当時のものが現存してる校門が。
 
 
南へ少し歩き、裁判所前の外堀跡を拝見。