岩屋城(岡山・津山市)

岩屋城(Pあり)
1441年(嘉吉1)、嘉吉の乱のご褒美で美作守護となった山名教清が築城。
応仁の乱(1467)が勃発して手薄になった美作に、赤松政則が攻め込み奪取。
1519年(永正16)、浦上村宗の出仕を止めた赤松義村は、三石城を攻めたけど負け。
翌年(永正17)、村宗に奪われた岩屋城を攻めた。
半年に及んだ戦いは、救援部隊の宇喜多能家軍が赤松軍に勝利し、小寺則職父子が敗北して自害。
1544年(天文13)、美作に侵攻した尼子氏が一帯を攻略し支配。
美作を狙う宇喜多直家は岩屋城を落とすのに、尼子氏が副将として入れてた芦田正家を調略し、中村則治を暗殺させた。
家臣の加藤氏は、病身で仇討できないことを無念に思い、山の三合目あたりの谷間で自害した。
登山口のちょい手前の駐車場に、案内板がある。
少し戻ったトコ左手に、古いお墓っぽいのが見えた。
 
宇喜多氏は毛利氏と手を組んでたけど、織田方に乗り換える。
攻め落とされ毛利方の中村頼宗が入るも、1582年(天正10)、備中高松城水攻めの和睦で美作は宇喜多氏に割譲される。
城の明け渡しを拒否って戦いに。
岩谷簡易郵便局にナビを設定して行くと、コッチ〜って大きな看板がある。
その割に、車1台分幅の道のりでビビる。
出雲街道らしい。
奥にある登山口まで、宇喜多氏が築いた陣城があった碑がある。
左上の妙福寺の上砦は花房助兵衛が、右上の荒神の上砦は浦上与九郎が担当。
他にも付城が岩屋城を取り囲んでた。
数ヶ月に及んで攻めたけど落とせず、足利義昭の調停で開城となる。
  
家臣団屋敷跡碑もいっぱいあった。
  
やっと登山口も、果てしなく見える階段が待ってる。