八木城(京都府)

八木城(←P春日神社) MAP
1431年(永享3)、罷免された香西元資に代わって丹波守護代として入封した内藤信承が築城。
1526年(大永6)、弟の香西元盛を讒言で殺された八上城波多野稙通&神尾山城・柳本賢治がCから離反、B'と結んで勢力を伸ばす。
1538年(天文7)、B’派にチェンジした波多野秀忠に攻め落される。
1545年(天文14)、C"細川氏綱の挙兵に呼応したけど、三好長慶に世木城を落とされた。
1548年(天文18)、三好長慶がB’と離れC"と結んだことで同盟関係となり、内藤国貞は松永長頼を娘婿に迎える。
1553年(天文22)3月、将軍・足利義輝三好長慶との和睦を破棄。
将軍&B'についた丹波攻めへ、9/3、松永久秀&長頼兄弟が出陣し、数掛山城・波多野秀親を囲んだ。
けど、香西元成や三好政生に背後から襲われ、内藤貞国が戦死。
八木城も攻略されそうになったけど、松永長頼が救った。
内藤宗勝と改名、城主となる。
1559年(永禄2)、波多野秀親を服属させ、松永孫六八上城に入れたり。
1560年(永禄3)、若狭へ侵攻したけど、朝倉氏の援軍を得た武田氏に敗れ撤兵したり。
1565年(永禄8)、黒井城・赤井直正に攻められた横山城・塩見頼勝を救援に向かって討死。(和久郷合戦)
壊滅した内藤勢は子・貞勝(ジョアン)を擁して鬼ケ城に脱出したけど、討ち取られた。
1579年(天正7)、明智光秀に攻略される。

城門ぽい京都縦貫道ガード下へ曲がるトコに、ジョアン内藤飛騨守忠俊ゆかり之地碑がある。
 
ガード下を潜ると、登山口がある。
 
 
下屋敷(東雲寺、Pあり)
  
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千手寺砦(千手寺、Pあり)
八木城攻めの拠点として、明智軍が使用。