明徳の乱(兵庫・豊岡市&篠山市)

妙楽寺城(妙楽寺、Pあり)
1389年(康応1)5月に山名時義が亡くなると、足利3義満は言いがかりをつけ後継者2人を討伐するよう命じる。
時熙&氏幸は、山裾の住宅街からちょっと山へ入ったトコにある大伽藍の妙楽寺を利用して急ぎ築城し、立て篭もった。
後に山名四天王に列する垣屋氏&太田垣氏などはコッチについた。
  
 
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九日市城(←Pフレッシュさとう)
将軍の命を受けた氏清&満幸は、時義が晩年に居所としてた九日市城を陣城に改造し、5ヶ月を要して落城させた。
長氏、奈佐氏、土屋氏など有力国衆はコッチについた。
1年弱で将軍が時熙&氏幸を許したことにムカついた氏清は、なんやかやあって挙兵に至り、旧平安京大内裏である内野で激戦に。
敗走の途中、二条大宮で戦死した。(明徳の乱
11ヶ国の守護だった山名氏だったけど、時煕が但馬、氏幸が伯耆、氏家が因幡の3ヶ国に激減。
中山権大納言親通と時義の娘・玉露の間に産まれた日真大和尚の生誕井戸碑がある。

山名宗全の嫡男・教豊が1460年(長禄4)に父の怒りを買って追放になり、家督を継ぐ光を見た次男・是豊だったけど、兄は許されて戻ってきた。
がっかりんこしてた1462年(寛正3)、山名家の分裂を望む細川勝元が備後南半国守護に任じて恩を売る。
応仁の乱(1467)が始まると但馬の拠点となってたココを、1471年(文明3)3/23、細川派の是豊は息子に攻めさせた。
急を聞いて宵田城から垣屋孝知がかけつけ、山名頼忠は敗走した。
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板井城(天満神社、路駐) MAP
1371年(応安4)に山名時氏が亡くなると、丹波は4男・氏清が継ぎ、築城して守護代・小林左近将監を入れた。
明徳の乱(1391)で氏清は敗死。
応永の乱(1399)に氏清の子・時清は、大内義弘に呼応して丹波で挙兵するも大敗。
1409年(応永16)の氏清の33回忌に、将軍・足利義満から氏清在世の功を賞され、時清は宮田荘を領することを許されて板井城へ復帰した。

南側の天満神社のトコに、伊能忠敬笹山領測量の道碑があった。
  
北へ続いてんのかよくわからない道があった。
車で北側の天満神社へ向かう。
  
小坂川を堀代わりにしてたのかな。
 
南へ向かって歩いてみたら、木に不気味な絵が奉納?されてた。
  
登れそうな所があったんで、ちょっとだけ覗いてみる。