英賀城(兵庫・姫路市)

祖先は瀬戸内海で水軍をしてた三木氏。
嘉吉の乱で城主だった赤松祐尚が亡くなると、山名祐豊の命で恋の浜城から引っ越して大きな城に建て替え、的形〜室津を領した。
三木城を落とした秀吉は、天正8年3月、英賀城攻めへ。
北側の山崎に本陣を置き、陣屋や付城を築いて包囲、支城を次々と攻略していった。
河下口を守っていた三木与一兵衛らが内応して城内に入れ、焼き討ちにあって一夜で廃墟に。
林田へ逃げ隠れた家系が大庄屋になって、おうちを公開している。
福崎でも大庄屋になって、おうちを公開してる。
 
本丸(路駐)
住宅街の中に本丸跡碑。
 
英賀御坊(本徳寺)を寺内町とし、商家などもすべて取り込んだ総構えの城郭都市。
市庭館、井上館、土井館など9ヶ所に館、一の門、桐門、菊の門、桜門、七重門があった。
 
☆模擬櫓台(英賀城跡公園、路駐) MAP
櫓台に子供がボールをぶつけたおしてる。
英賀城野中口之跡って石碑もあった。
「〜口之跡」ってのがアチコチにあるみたい。
 
 
☆英賀神社
境内北側に土塁が残ってる。
  
 

 
★明蓮寺(Pあり) MAP
1493年(明応2)、蓮如上人が播磨での布教拠点に英賀の城下町をチョイス。
建立した英賀本徳寺は本願寺の中でも最も高い寺院の1つで、信徒が集合して信長軍に反抗した。
落城後、お寺を中心に形成された自治集落は解散させられ、本徳寺は亀山へ。
碑も工事の邪魔になるからと明蓮寺に移された。

たくさんあったお寺で唯一、英賀の地に残留した明蓮寺。
ご住職に親切にしていただいた。
  
 
☆田井ヶ浜(路駐) MAP 
英賀城域の最南端にあった港。
1577年(天正5)、織田方についたのを知った毛利氏は、姫路城攻めに重臣浦宗勝を派遣。
官兵衛は5千の水軍が上陸して一服してるトコへ奇襲。
駆り集めた近在の百姓たちに旗・指物を持たせ、小寺本隊が後詰めに来てるようカモフラージュし退散させた。(英賀合戦)