倉安川吉井水門(岡山・岡山市)

倉安川吉井水門(Pあり) MAP
高瀬廻しと呼ばれる楕円形の舟溜りを真ん中に、吉井川と倉安川を結ぶ2つの水門がある。
水位差があるため片方ずつ開けて使われてたらしい。

吉井川に繋がる一の水門は、今は使われていない。
  
倉安川に繋がる二の水門の小屋に、パンフを用意してくれてる。
舟溜りの上には番所屋敷が今も残ってる。
階段が続いてて、積荷の検問や通行税を徴収してた。
 
岡山城下を流れる旭川は浅くなってきてて、たびたび水害を起こしてた。
中川と繋ぐ工事をして、1673年(延宝1)の洪水では城下への被害軽減に成功したけど、代わりに中川周辺が大災害を受ける。
更に大凶作が続き、藩財政は窮迫、農民の生活もガタガタ。
1679年(延宝7)、藩命で津田永忠は倉田新田を開発、同時に用水兼運河として倉安川の開削も行う。
  
も、この程度ではたりず。
大規模な干拓をするには大河川の河口やって、幸島新田を着工。
複雑な海流や海洋の諸条件を徹底調査し、大阪の石工を使って海の中に長大で精緻な石積堤を築く。
排水を良くするため神崎川の末端を広げ(大水尾)、流入する河川に水門を設けて排水調節を行なう。
川の底を潜るサイホン技術等を駆使し、上流の吉井川から坂根大用水を開削して水を確保したり。
近代的な干拓システムを生みだした。
2年後からは百間川の築堤にとりかかり、1692年(元禄5)に海だったとこへ南北4km、東西5kmの大干拓・沖新田を完成させた。