水生山城(兵庫・豊岡市)

水生山城(長楽寺、Pあり)
1356年(正平11)、足利尊氏は但馬の山名時氏派掃討作戦を決行。
次々と諸城を落とされた南党勢は、反撃の機をつかもうと三開山城から長左衛門尉を水生城に派遣布陣。
10日に及ぶ激戦は北党に軍配。
南北朝期には長楽寺上部の平坦地に居館があり、尾根上に東城・本城・西城を構えてた。
 
1580年(天正8)、播磨を平定した秀吉は、因幡侵攻にあたって背後を突かれないよう但馬討伐を弟・秀長に頼んだ。
朝来・養父をほとんど無傷で通過し、有子山城・山名祐豊も降伏したけど、毛利派の轟城・垣屋豊続が軍勢を西村丹後守宅の水生山城に集結させ抵抗。
戦国末期に追加された竹貫城が主戦場となった。
敗れても余部城で籠城→落とされても田井城で抗戦したけど、ついに降参した。
 
どんだけ登るねんてくらい階段が続いてた。
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水上陣屋(水上公民館、Pあり) 
1666年(寛文6)、小出英勝が気多郡内に1千石を分知され旗本に。
1749年(寛延2)より水上村の三木家が代官を務め、三木さんちが代官所となった。
  
 
☆水上山城
日高東中学校北の山に1356年(延文1)、北党勢は水生城攻略用の陣城を築いた。
南麓から登る尾根筋の曲輪は階段状の古墳を利用したもので、頂上も大きな円墳を削平。

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×宮井城
大永年間(1521〜28)、篠部伊賀守が奈佐谷を押領。
水生城攻めに進軍してくる羽柴軍を、岩山城の下の難所に差し掛かった所で襲う作戦を練ってたのを密告。
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★岩山城(←P兵主神社) MAP
羽柴軍は方向チェンジし、伊佐を経て浅間坂を越え、出石を攻略し、狭間坂を越して水生城へ向かい攻め落とした。

赤崎交差点を右へ進軍すると、敵の待ち伏せポイントと思われる。
リビングコヤマの先を左折して、兵主神社に車をとめると、山へと道がのびている。