聖徳太子古戦場(大阪府)

稲城(光蓮寺←Pジャパン) MAP
仏教をめぐって蘇我馬子物部守屋の確執が、584年(敏達13)から日本書紀に再び現れる。
32年前と同様、疫病の流行を仏教のせいにして、馬子が建てた仏塔・仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に捨てた。
587年(用明天皇2)に敏達天皇崩御すると、後継をめぐって対立が激化。
守屋討伐にほとんどの皇子や群臣が呼応したらしく大軍で攻めてきたんで、守屋は急ぎ稲で囲って砦を築き抗戦。
聖徳太子を絶体絶命のピンチに追い込むほど攻め込んだけど、滅ぼされた。
 
神道擁立排仏派の守屋の館は、寺とされた。
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聖徳太子古戦場(大聖勝軍寺、Pあり) MAP
聖徳太子が合戦するなんてビックリだけど、蘇我馬子派でココに布陣し物部守屋と戦った。
攻め込まれて絶体絶命の時、椋の木の幹がパックリ割れて中に隠れることができたとか、そんなアホな〜話が日本書紀に載ってるらしい。
崇仏派の太子が戦勝記念に寺を建立し、推古天皇命名した。

秦河勝が守屋の首をとって池で洗った。
25号線沿いにある駐車場に碑・像・池がある。
  
 
木の上にいた守屋を迹見赤檮が鏑矢で射抜いたとか。
歩道橋のトコに矢を埋めたという塚がある。
ココに木があったのか、ちょっと南の弓塚のトコにあったのか、よくわかんない。

 
コンビニの向かいに守屋の墓がある。
神道擁立排仏派だったんで神社が寄進している。