此隅山城(兵庫・豊岡市)

★出石神社(Pあり)
紀元前27年3月、新羅から渡来した集団が定住したとか。
天日槍が持ってきたっていう八種神宝の神霊、天日槍自身の神霊を奉斎してる。
 
平安朝の頃、但馬の国司や都の人たちが国府に着くと参向したらしい。
南北朝期の戦乱になると、但馬守護・今川頼貞がいた磯部城攻めに、神主の長尾家景は弟を代打出陣させている。
此隅山城の隣りにあったから、山名vs垣屋氏の戦いで丸焦げになったりしーの。
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此隅山城
1372年(文中1)、但馬守護・山名時義が築城。
看板のあるトコを左へ川沿いを行くと、戦国期の宗鏡寺砦へ。
真っすぐ坂道を少し進んだトコ左手は、主郭へ続く登山口があるけど草ボーボー。
  
 
1494年(明応3)、息子・山名俊豊に加勢した垣屋続成と抗争となり、山名政豊は九日市城から居所を移す。
主要部&御屋敷方面の曲輪群を大改修して本拠とした。
1568年(永禄12)8月、因幡守護に対抗する武田信高のアシストに、毛利氏は織田信長にお願いして但馬山名氏をボコボコにしてもらう。
田結庄城&鶴が峰城を残し、主要18城が2週間余りで落とされた。
山名祐豊は堺に出奔したけど、今井宗久の仲介で帰宅。
ぶっ壊されてたんで、居館を兼ねて宗鏡寺あたりの曲輪を築き、クランク状に折れた空堀や土塁が設けた。
1574年(天正2)、有子山城を築いて引っ越し。