平田・大村合戦(兵庫・神戸市&三木市)

淡河城(←道の駅淡河、Pあり)
道の駅に車をとめて、脇の道から戎神社→畦道を左へ→川を渡り→少し山を登る。
  
 
本丸は田んぼに。

天守台は昔の形状を留めているらしい。
 
本丸門があったトコに鳥居と階段があり、降りると堀が残っている。
  
二の丸の奥に竹慶寺跡もちょっこしだけ残ってて、淡河氏墓所があった。
その南に南の丸があり、城主の館や庭園があったみたい。
  
承久の乱(1221年)で勝利し、後鳥羽上皇の領地を召し上げた鎌倉幕府
副執権・北条時房の所領となった淡河庄に、地頭として派遣された北条成正が築城。
南北朝時代には円心と戦って落城したけど、赤松一族から養子をもらって復活。
するも嘉吉の乱で山名氏に降伏。
応仁の乱を機に赤松氏に仕え、東播磨の権力が別所氏に移ると別所氏に属した。
今度は三木合戦に巻き込まれる。
摂津守護・荒木村重が毛利方に寝返り、花隈城→丹生山→淡河城→三木城という毛利氏からの食糧支援ルートができた。
天正7年、総大将を弟・秀長に丹生山を落とした秀吉は、続いて淡河城へ攻め寄せる。
淡河定範は、雌馬の群を放って騎馬軍勢を混乱させ。
50人ほどで守ってた館程度の城やったから更なる戦いをせず、城を焼いて車で30分の三木城へ。
 
☆淡河弾正終焉地(八幡森史跡公園←P三木市民病院) MAP
7/10の平田合戦でも大活躍した淡河定範だけど、撤退の途中に八幡の森で割腹。
 
 
★平田山砦(Pあり) MAP 
天正7年9月、毛利&別所ダブル出兵し兵糧を三木城に運び入れる作戦を決行。
ひそかに忍び寄った毛利勢は、秀吉の豪将として活躍した谷大膳の守る平田山砦を夜襲し、討ち取った。
合図によって三木城内からも別所吉親が戦いに加わる。
急報を受けた秀吉が応援に駆け付け、腹ペコの別所方は次々と討ち取られ大敗。
食糧運搬を後回しにしたんで、大半は奪い取られちゃった。