加古川城(兵庫・加古川市&姫路市)

加古川城(称名寺、Pあり) 
1184年(寿永3)、平家追討で功績のあった加須屋有季が源頼朝から印南郡南条郷(加古川高砂市)を与えられたと太平記にあり、播磨守護所で守護代してたんちゃうかといわれる。
隠岐に護送される後醍醐天皇が宿泊した。
長親王は同じ日、近くの教信院に。
当時は間に川が流れてたらしい。
罪人扱いだから父子は当然会うことはできず、息子は高砂ノ湊から讃岐へ。
嘉吉の乱(1441)では、加須屋武貞は赤松教康と一緒に伊勢へ逃れて自害。
1578年(天正6)、本格的な毛利氏との戦いのため再び播磨入りした秀吉は、加須賀が館で軍議を開いた。
仲間割れすると、別所氏の武将だった朝貞と長子・朝正は三木城に入り、平井山の合戦で討死。
二男・武則は秀吉につき、賤ヶ岳の戦い天正11)では七本槍の1人に数えられる戦功をあげる。
小牧の役(天正12)などでも活躍、1万5千石を領して大名の列に加わった。
小規模な城館から加古川城になるのは、この辺りから。
しかし、関ヶ原の戦い(1600)では西軍に属して敗れ、戦後は旗本に抱えられた。
のちに子孫が姓を糟屋に改めたそう。
1615年(元和1)、徳川家康一国一城令によって破却された。
墓地には、大正10年ごろに子孫の手でまとめられた加須屋武則ら一族の墓がある。
 
出雲&隠岐守護・塩冶高貞の嫁にチョッカイだして拒否られた、足利尊氏の執事・高師直
旦那をぶっ殺して横取りしようと企むも、逃げられる。
追討を命じられた山名時氏が米田町船頭あたり(現加古川の西岸)で追いついて、高貞の弟ほか7人の忠臣を全員討ちとり、本人も自害させた。
現場にあった七騎供養塔は洪水で流されてしまったらしい。

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☆焚堂 MAP
夫と別ルートで逃げたけど、播磨蔭山で追いつかれた北の方一行は死を選び、小屋に火をつけて亡骸を燃やした。
 
碑と、四角い石垣を積んだ上に盛土がされた灰塚がある。 
 
円通寺(Pあり)
焼け跡から見つかった北の方のものと思われる仏像を本尊としてるらしい。