坂本城(兵庫・姫路市&加東市)

坂本城(路駐)
545号線の県立大工学部前交差点を南へ→道なりに進む。
左に大きな池、右にお店がある先に、土塁と堀が一部残ってる。
単郭の平城だけど、土塁や堀の規模は突出してたらしい。
 
赤松円心足利尊氏から播磨&摂津の守護職を与えられ、坂本城に守護所を置いて本城にした。
京で兄弟喧嘩(観応の擾乱)に負けた尊氏は、陣容を立て直しに丹波路を経てココへ落ち延びてきた。
そして光明寺合戦へ出陣。
  
1486年(文明17)閏3/27、赤松政則に蔭木城を急襲され、垣屋一族は壊滅した。
山名政豊坂本城で全軍の指揮をとってたけど、備前での戦況に気を取られ、田公豊職が一人かろうじて逃げ帰って来るまで赤松軍の動きに気づいてなかった。
1488年(長享2)4月、城下での激しい衝突を連敗の最後に、山名政豊は但馬へ撤収。
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光明寺城(Pあり)
石塔頼房は光明寺に陣を構え、尊氏を討つため八幡の直義に援軍を求める。
弟が来る前にと、尊氏の方からボコりに来たとか。
  
めちゃ山の上の、更にてっぺんにある本堂裏に光明寺合戦本陣跡が。
周りは絶壁。
尊氏軍は攻め落とせず、摂津・打出浜の戦いでも直義軍に敗北。
  
1483年(文明15)真弓峠の戦いで敗れ、赤松政則は家臣団から追放された。
復活のきっかけを作ったのは別所則治。
政則を大御所・足利義政に面会させ、日野富子&義尚が有馬澄則へ出した家督継承を無効にした。
1485年(文明16)9/29、政則は出仕。
10/3、山名氏から所領を取り戻すため、軍勢を率いて京都を出発。
被官衆と和解し、1486年(文明17)2月、浦上則宗備前福岡で合戦。
閏3/4、政則は光明寺に着陣し、3/27、蔭木城を急襲して垣屋一族を壊滅させた。
光明寺本堂前で首実検を行っている。