三木城(兵庫・三木市)

三木城(上の丸公園、Pあり)
1483年(文明15)、赤松政則は真弓峠の戦いで山名氏に大敗して家臣から見捨てられ、堺に逃亡。
家督をチェンジされちゃったのを、別所則治が前将軍・足利義政にとりなしてカムバックできた。
などの功績で、東播八郡(三木、明石、加東、加西、加古、印南、多可、飾東郡)の守護代に任ぜられる。
赤松家臣団は赤松政則の死後から支配権をめぐって東西対立(別所&小寺vs村宗&赤松村秀)が続く。
赤松義村を暗殺した浦上村宗をやっつけに、遺臣が逃亡先から戻ってきた。
1522年(大永2)10/6、村宗が攻め込んできたけど撃退。
追撃して書写山でも破り、三石城へ追い返した。
1529年(享禄2)10/3、在田氏を攻め落とした村宗がまた攻め来たけど、牢人衆の活躍で持ちこたえる。
1530年(享禄3)6/29、浦上方の豊地城・依藤秀忠を一緒に攻めてた柳本賢治が暗殺されたことで、味方諸城が落城し、別所村治は城を捨てて国外に脱出。
1531年(享禄4)6月、細川高国に従って摂津に出陣中に、赤松晴政が村宗を討ったことで復帰。
1538年(天文7)11月、尼子晴久方に攻められるも撃退。
天文23年11月頃から、細川晴元になびいたことで、三好長慶が出陣させた摂津軍に攻められるも、堅固に守り撤退させた。
別所長治の代になると織田信長と仲良くしてたけど、秀吉と仲間割れして三木合戦に。
 
ナビがないと通り過ぎてしまうような細い道を曲がったところにあるあたり、お城らしさを醸し出す。
石垣は明石城にリサイクルされたとか。
  
三木合戦図があって三木の干し殺しの様子がよくわかる。
奥様も甲冑をつけて出陣したり、城兵たちの命を救うために我が子を殺さなきゃならなかったり、苛酷な運命に引き込まれた。
 
毛利両川って吉川元春小早川隆景の2人のおじたまは、仲良く本家の甥をもり立てたけど。
別所氏の2人のおじたまは仲が悪く、吉親は自分のしたい放題した。
 
丘陵全域を城塞化した堅城で、「緊急調査報告」に一の曲輪を中心に二の曲輪(図書館&美術館)、三の曲輪、新城、鷹尾山城、宮ノ上構からなっており、城下町を形成していたとある。

 
☆正入寺城(正入寺、Pあり) MAP
三木城の東の一郭で、弟・別所治定が館を構えてた。
叔父・吉親と平井山本陣に攻め上がったけど、秀吉勢に押し返され命を落とした。

池田輝政の家臣・伊木忠次が三木城主として入った時、館跡に勝入寺を創建。
狭い急坂をのぼると、お寺の奥に駐車場がある。
.
★宮ノ上砦(浄水場) 
三木市役所前の広い駐車場の奥から遊歩道に入り、浄水場の削平地に沿ってブラリ。
  
東屋を通って下ると月輪寺へ出た。
 
八幡山に築かれた三木城の南を守る出城。
三木城内は食料が底をつき、毛利の支援も期待できず、数千人が餓死。
1580年(天正8)1/6、秀吉勢はココを奪って陣所に。
下の尾根にある鷹ノ尾城を攻撃。

 
鷹ノ尾城(勤労者体育センター、Pあり) MAP
文化会館や市役所、体育館などが建つ、細長い尾根上に築かれてた三木城の一郭。
勤労者体育センターの奥に、西端にあった主曲輪が。
土塁や土橋、空堀が残ってるらしくモッコリしてるのが見えたけど、枯葉が深かったんでマダニを恐れてチラ見だけ。
 
三木合戦も終盤、攻め取られた宮ノ上砦から秀吉勢に襲われ。
食糧難で身動きできない者が多く、ココで戦うことを諦めた別所友之は本城に退却。
残った兵は降伏を潔しとせず自害した。