出石城(兵庫・豊岡市)1~3

有子山城
1356年(正平11)、足利尊氏は但馬の山名時氏派掃討作戦を決行。
春来城、宿南城、八代城、木崎正法寺城と要衝を落とした次は、もともと北党勢力圏内の南但馬にありながら味方につかない諸城をボコっていった。
8/7に大坪城を、8/11にはココを。
1574年(天正2)に大改修。
本丸には3〜4mの石垣をめぐらせ、東南隅に三階櫓を配し、西へ4つの曲輪を梯郭状に繋いでいたとか。
1580年(天正8)5/16、羽柴秀長に攻め落とされ、但馬最後の守護・山名氏政が因幡に敗走。
 
出石城(P400円)
1595年(文禄4)8月、小出吉政が龍野藩から加増転封。
1604年(慶長9)に父・秀政が死去すると、岸和田藩を継いで移り。
子・吉英が出石藩を継いで、居館があった場所に三の丸→二の丸下の櫓→二の丸→本丸→稲荷郭と梯子を立てかけたような梯郭式のお城を築いた。
  
狭くて、どこに御殿が建ってたのかと思う本丸では、ミステリーツアーの出題が。
   
左側から鳥居の階段を登ってくと、出石城の最上段にある稲荷郭に直結してて。
山上の城郭との連携の任にあたる城兵が駐屯していた。
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1613年(慶長18)、吉政の死去で吉英が岸和田へ移り、出石藩は弟・吉親が継いだ。
1619年(元和5)、吉英が出石へ移封となり、吉親は園部に移封されて園部藩を立藩。
吉英の子・吉重は、1666年(寛文6)5月に家督を譲られた際、弟・英本、英信(大藪陣屋)、英勝(水上陣屋)に分知。
吉重の子・英安も、1673年(延宝1)11月に家督を譲られた際、弟・英直(土田陣屋)に分知。